hatto

2025/10/22 18:54

見出し画像


最近知った言葉に「鈍刀を磨く」という言葉があります。
みなさんはご存知でしょうか。

坂村真民さんの詩から学んだこと

「鈍刀を磨く」というのは、詩人の坂村真民さんの言葉で、坂村さんはこんな詩を読まれています。

「鈍刀をいくら磨いても無駄なことだというが、何もそんな言葉に耳を貸す必要はない。せっせと磨くのだ。
刀は光らないかもしれないが、磨く本人が変わってくる。つまり刀がすまぬすまぬと言いながら、磨く本人を光るものにしてくれるのだ。」

坂村真民

錆びてしまった刀をいくら磨いても意味がないと言われるかもしれない。でも、それは刀が光るのではなく、磨いている本人がどんどん光ってくるという意味。

この詩を読んで、私は「まさに子育てだな」と思いました。「子どもを育てているつもりが子どもに育てられていた」という話はよく聞きますが、まさにそれを表しているように感じたんです。

子育て前の自分と向き合って

息子が生まれる前の私は、自分中心の生活をしていました。一人で本を読むのが好きで、映画も一人で行くのが好き。映画を見終わった後に感想を言い合うのすら億劫で、余韻に浸って一人でじっくり考えたいと思っているようなタイプでした。

誰かのために何かをするということも、正直なところ義務感でやっていたような気がします。社会に馴染むため、冷たい人と思われないため。
でも、それって本当の意味では人のためではなく、結局は自分のためですよね。

それに、私は自分で優れた人間だと思っていなかったので(今も思ってはいませんが)、私なんかが「人のために何かする」なんておこがましいのではないかという気持ちもありました。

子育てで変わった価値観

そんな私を変えたのは、子育てでした。
子育てって、自分の気持ちややりたいことが全部後回しになりますよね。経験者の方はきっとうなずいてくれると思うのですが、自分のことを考える余裕なんて全くなくなります。

「カフェで一人でコーヒーを飲む」なんてレベルの話ではなく、行きたい時にトイレに行く、一日三食たべる、という生きていく上で最低限のレベルで自分のことができない状態になります。特に産後の1~2年は本当に大変で、息子が1歳になるときに、私は5歳くらい歳を取った気がしていました。

でも、そこには「圧倒的に求められている感覚」がありました。「圧倒的」というのがポイントです。
目の前のわが子が今日も生き抜くために、私が動くしかないという感覚。誰かに評価されるわけでもないし、感謝されるわけでもない。

ただただ、この子を生かすために自分が動く。
子育ては見返りもないし、成果もすぐに見えないし、正解もわからない状況です。でも止まるわけにはいかない。

正直、しんどいなと思うことは多々あります。多々、というか毎日かも。
でも、やるしかないから、がむしゃらにやる。やり続ける。

気づいた自分の変化

その中で思ったのが、子どもが成長しているのと一緒に自分も変わったということです。
昔は自分のことで精一杯で、誰かのために何かするなんて無理だと思っていた私が、わが子のためなら自然と動いているんですよね。

それも100%「自分ではない他者」のため、「息子という自分以外の人間」のために。
それは今まで経験したことがないことでした。子どもが生まれるまでは、自分の利益を何も考えずに100%誰かのために動くという経験がなかったんです。

それが子育てで初めてできて、私にもできるんだなと知りました。

鈍刀を磨く意義

これがまさに「鈍刀を磨く」ということなのかもしれません。鈍刀を一生懸命磨いているつもりが、実は磨いている私自身が変わっていく。光っていく。

そしてこれを書きながら、子どもは鈍刀なんかではなく、原石だなとも思いました。だから磨けば磨くほど、子どもも私自身もきっといい方に変わっていける。

今思えば、息子が生まれる前の私は「自分なんて大したことない」と思いながらも、実は変わることを恐れていたのかもしれません。
でも子育ては、そんな私の言い訳を全部取っ払ってくれました。

変わりたい、変わりたくないではなく、変わらざるを得ない状況に放り込まれた。そして今、息子と過ごす日々の中で思うのは、案外人って変われるものなんだなということ。

劇的にガラッと変わるわけではないけど、毎日少しずつ、気がついたら前の自分とは違っている。
それがきっと「鈍刀を磨く」ということなんだと思います。