2025/02/02 12:33
塩田千春さんの作品を目にした瞬間、
息が詰まった。
広い空間いっぱいに張り巡らされた糸、
その下に広がる水面ではぽちゃんと小さな音がして、波紋が広がる。
包みこまれるような、でも圧倒されるような、
そんな感覚に陥った。

言葉にならない感情が湧いてくる。
それは嬉しいとか悲しいとかいうものじゃなくて
ただの圧倒的な「なにか」
その「なにか」が体の中で熱を持って
じわりと広がっていく感覚。
「この感覚を、どう言葉にしよう」
家に帰ってからも、その「なにか」は消えずに、
自分の中に残る。
このままでは忘れてしまいそうな気がして、
急いでノートをひらく。
そして思うままに、感じたことを次々と書き殴った。
繭のような白い糸、赤い糸で覆われた家、
その中に立っている自分、体の奥に生まれた感情の波。

書き終わると少しほっとした。
ノートの中にはあの「なにか」が
まだ生きているように感じられた。
でも、
次の日、改めてノートを見返して、
この文章を「もっときれいにまとめよう」
と思ったときに、それは歪んでしまった。
言語化しよう、伝わる文章にしよう、
と思えば思うほど、
さらさらと手から砂がこぼれ落ちていくように
あの感覚が遠のいていくのを感じた。
そしてきれいに整えたはずの文章は、
私があの場所で感じた「なにか」とは違うものだった。
「なんか違うなぁ」
それは、かつて夜な夜な妄想を繰り広げていた
子供の頃の記憶と重なる感覚だった。
布団の中で膝を抱えながら頭の中に描いた理想の家族。
そんな自分の中の物語を、
毎晩すこしずつ育てることが楽しみだった。
でも、妄想を現実に書き留めようとすると、
いつも違和感を抱いた。
どれだけ丁寧に書いても、
あの感覚をそのまま形にすることはできなかった。
その違和感を塩田さんの作品を通して
再び味わったとき
ようやく気が付いた。
言語化しようとすればするほど、
私が感じたあの「なにか」は手からこぼれ落ちる。
「整理しやすい形」に収めようとするたび、
あの曖昧さや鮮やかさ、不安定さは消えてしまう。
だからと言って、言葉が無力だとは思わない。
むしろ私は昔から言葉に支えられてきた。
漠然としたもやもやを、
言葉にすることで気持ちが整理できたり
なんとなく感じている不安の先回りをして、
身を守ろうとしたり。
でも、それだけではないんじゃないか
という気がしてくる。
言葉にしないまま抱えておくことで
あの「なにか」は私の中に残るのかもしれない。
それは言葉では到底届かない広がりを持っていて
曖昧で、整理されないまま、自分の中に残る。
でも、だからこそ、言葉にしようと思う。
言葉にすることで、その「なにか」を
誰かと共有できるかもしれない。
たとえそれが元の感覚のままではなくても、
断片でも、かけらでも。
誰かとなにかを分かり合えるきっかけになって
新しい「なにか」が生まれるかもしれないと思うと、
言葉にはやっぱり大きな価値があると感じる。


だから私は 余白を残しながら、言葉にしたい。
ゆらぎや不完全さを恐がらず、
そのまま文章に込めたい。
塩田さんの作品に出逢ったことで、
私の心の中に新しい種が蒔かれた。
その種はまだ言葉にならないまま、
静かに根を伸ばし始めている。
それがどんな形になるのかはわからないけど、
その曖昧さすらかけがえのないものに感じられる。